四日市公害 学習案内

ガイドブック NO.1

四日市公害ぜんそく

もくじ
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  • 6.住民の動き
  • 7.公害病認定制度発足
  • 8.公害裁判とその後のこと

  •  名古屋から近鉄電車に乗り、東に伊勢湾、西に鈴鹿山脈を眺めつつ、30分ほど南下すると、左手の海岸地帯に、赤白だんらん模様の高い煙突と、球形、円形のタンクや、銀色のパイプ、プラント群が目に入る。
     また、名古屋とは逆に、県庁所在地である津から近鉄電車で30分ほど北上すると、こちらは左右に石油化学コンビナートの工場群が目に入る。60年代から70年代には、目を閉じていても、石油化学特有の悪臭が鼻につき、着いたなとわかるほどであった。
     そこが、日本で最初に作られた石油化学コンビナートの町であり、「公害ぜんそく発生の地」でもある、三重県第一の人口を持つ四日市市である。

    1.四の日の市と宿場町

     四日市は、水のきれいな木曽、長良、揖斐の木曽三川が流れ込む内湾の伊勢の海と、御在所岳、鎌ヶ岳などの鈴鹿の山々に源を発する三滝川などから流れ出る土砂で形成された豊かな土地に恵まれている。その四日市は、千年ほど前から、農業、漁業を中心に発展してきた。

     400年ほど前の元禄のころ、毎月、四の日の、4日、14日、24日に定期的に市がたつようになり、この市を「四日市」と呼び、四日市の名がここから生まれたといわれている。
     そのころから、四日市は、徳川幕府直轄の天領となった。その後、東海道五十三次の宿駅となった。幕府が参勤交代の制度を設けてからは、東海道に沿う宿場町として、また、伊勢参宮の分岐点として旅人の往来もあり、商いの町としても栄えてきた。

     250年前ほど、万古焼きが桑名で創り出され、その後、四日市に移り、次々に名工が生まれ、明治以後、業者が次第に増え、製品は全国各地で販売され、急須に代表される万古焼きの名声を得ている。

     また、四日市出身の作家丹羽文雄が、「菜の花時まで」に、――朝早くから午後になっても、海山道参りの人々は、菜の花に埋まって歩いていた――と書いているように、菜種油の生産は、元禄の頃より「伊勢水」として有名である。

     江戸末期、農家の副業として栄えた製糸業は、天然の良港を持ち、本州のほぼ中央部に位置する地理的条件も重なり、わが国に輸入される羊毛のほとんどは四日市港で陸揚げされ、明治以後、次々に紡績工場が作られ、全国有数の紡績工場地帯に発展した。

     しかし、四日市の人々にとって不幸だったのは、こうした良好な条件に目をつけた日本海軍が、太平洋戦争突入に備え、日中戦争さなかの1939年(昭和14)に海軍燃料廠をつくったことだった。そして、1945年(昭和20)6月、米軍のB29爆撃機や戦闘機による空襲にあい、市街地も焼き尽くされ、わかっただけでも死者は800人余りを数える犠牲を強いた。

    2.コンビナート建設

     四日市の様子が大きく変わるのは、1958年(昭和33)に国政レベルでの争奪のすえ、海軍燃料廠跡地の払い下げを受けた、イギリスのシェル石油と提携している三菱系の昭和四日市石油が操業を開始したときからである。

    第1コンビナート

    四日市の町並みとコンビナート遠景 1959年(昭和34)には、昭石から送られる粗製ガソリン・ナフサを分解して、コンビナート各工場に送るナフサセンターの三菱油化が作られた。油化を中心に、塩浜地区の臨海部と、河原田・日永地区などの内陸部に、三菱化成、三菱モンサント化成、日本合成ゴム、味の素、松下電工、三菱ガス化学などの工場がパイプで結び合わされて第一コンビナートが形成された。同時に、1955年(昭和30)から稼動していた中部電力三重火力発電所も、燃料を石炭から重油に切り替えていった。
     こうした、1950年代後半に始まった「拠点開発方式」は、はじめは企業が主体となって地域開発をしてきたのを、「新産都市」たるべく各地の自治体が競い合った「全国総合開発計画」に基づく「新産業都市および工業整備特別地域政策」を1962年(昭和37)に国が採用していったわけで、四日市はいわば「拠点開発方式」のはしりだった。
     それが、結果的には、悲劇の実験都市となるわけだが、この頃から大きなことはいいことだといわれていた。また、年数が経つにつれてコンビナートからの固定資産税などの税収が減るのを、次々と新しい工場を作り、プラントを増設することによって、一定の税収をはかっていくために、企業の大型化・利潤増大と、自治体の税収確保とが手を握り合った。

    第2コンビナート

     1961年(昭和36)には、市民の憩いの場であった午起(うまおこし)海岸を埋め立て、ここに、大協石油午起製油所、大協和石油化学、中部電力四日市火力発電所が建設された。1943年(昭和18)に作られた大協石油四日市製油所とあわせ、第2コンビナートとなった。午起海岸につくられていた市営住宅などに住む人々の反対をあざ笑うかのように、四日市市以外からも芸伎を動員、1963年(昭和38)に華々しく開所式を行った。

    第3コンビナート

     さらに、1967年(昭和42)、四日市市で最後に残された海岸で、遊園地も作られている霞ヶ浦の海水浴場を埋め立て、ここに、新大協和石油化学をナフサセンターとする第3コンビナートを作る計画が立てられた。
     このときは、第1、第2コンビナート周辺地区の被害を目のあたりにしている、富田、富洲原、羽津などの隣接地区や、公害に痛めつけられている人たちが反対し、市議会に押しかけた。
     「工場がくれば、市は発展する」と単純に思い込んでいる市長や市議会の大多数議員は、こうした反対で立ち上がっている市民をいかにごまかすかに気を配った。そして、――コンビナート企業と自治体との間で公害防止協定を締結することとし、知事が立会人となるといった、協定さえあれば、たとえ公害が発生しても住民の納得のいく処置がとられる――という幻想をふりまいた。ついには、市議会において、誰が反対か賛成かわからぬまま、国会でのまねをしての強行採決を「ワアー」という声の中、数秒間で可決してしまった。

     公害防止協定には、後日談がある。1972年(昭和47)に第3コンビナートは操業を開始、とたんに悪臭が発生した。たまりかねた富田地区の自治会役員が、協定を尊重して善処しろと九鬼喜久男市長にかけあった。その際市長は平然と「味噌屋の前をとおれば味噌の臭いがする。コンビナートができればコンビナートの臭いがするのは当たり前」と言ってのけた。自治会役員は二の句がつけず、怒って席を立った。
    強行採決 協定というのは、誰が判断をして決めるのか?つまり、操業停止をかけられるのは住民が判断して決めることとなっていない以上、害あって利のないものということを、このとき住民は思い知らされたが、後の祭であった。

     第3コンビナート造成のための霞ヶ浦埋め立て強行採決の1967年(昭和42)は、四日市市制70周年にあたっており、カラー印刷の記念誌・市勢要覧特別号が8月に発行され、各戸に配布された。
     それには、ひときわきれいな扱いの【不夜城】百万ドルの夜景ともてはやされるコンビナートの夜の写真が掲げられ、讃辞が付されていた。

    T.市勢要覧特別号より―生活をつくる石油化学

    「あなたは石油を食べ、石油をきて、石油の家に住んでいる」と言ったらきっと驚くだろう。しかし、これはウソでも、冗談でもない。わたし達のまわりは石油からつくられる製品でいっぱいだ。ポリプロピレン、ポリスチレン、ポリカーボーネードなど、一般にはわかりにくいものばかりだが、これを加工すると、わたし達の着るものになり、食べるものになり、また、住まいの材料など日常生活のあらゆる物になるのだから、石油とはまさに近代産業の万能選手といえよう。
     石油化学は四日市の代表産業であり、広大な地域につらなるコンビナートは、わが国最大の規模を誇っている。
     昭和30年、塩浜の臨海部、旧海軍燃料廠跡に、まず昭和四日市石油が建設され、ついで、三菱グループによる石油化学工業の進出、その後も関連工場の建設が相次ぎ、互いにパイプで結び合った典型的な大企業集団が形成された。
     さらに、午起の埋立地には、大協石油を中心とした第2コンビナートが完成。
     ここに四日市の石油化学工業は、規模、生産量とも日本一の大コンビナートに成長したのである。
     これら一連の工場から生産される石油化学製品は、年間、1813億円〔1966年(昭和41)〕に上り、本市工業総生産額の約63%を占めている。
     そしてさらに新たなる発展のために、霞ヶ浦地先海面を埋め立て、そこに近代的な第3コンビナートを建設する計画も進められている。

     華々しいコンビナート謳いあげの影で、ここにはひっそりと、公害についての記述も掲載されている。

    U.市勢要覧特別号より―公害を防ぐ

     近代産業の生み出した、ありがたくない副産物「公害」を防ぐことは本市の大きな課題である。
     市では、1964年(昭和39)「ばい煙排出等規制に関する法律」の適用地域の指定を受けると同時に具体的な対策にのりだした。まず、現在の公害から市民を守ることを短期対策とし、汚染地区の小学校を中心とした公共施設などへ空気清浄機を設置、公害が影響したとみられる患者に市費による治療(1967年〔昭和42〕3月末現在353名)を行っているほか、予防処置として随時汚染地区の住民検診を行って今後の対策資料ともしている。
     また、発生源に対しては、国・県を通じ、行政、技術指導を行うとともに測定網を設けて、監視、規制を強化、企業側も煙突高層化、集じん、脱硫装置など発生源における公害防止に積極的な対策を行っている。
     長期の対策は、公害のない、しかもより力のある町づくりを目指すための、都市改造という大事業である。すでに、そのマスタープランはできあがり、つぎつぎと実現に移されようとしている。

     後述するが、コンビナート拡大こそ新たな発展と唱えたこの年(1967年)、公害患者2人目の自殺者を出し、ついには、磯津の公害患者9人がコンビナートによって生活を破壊されたとして、企業を相手どっての訴訟を、9月に津地方裁判所四日市支部へおこしている。

    3.コンビナートと公害

     コンビナート(企業集団)というロシヤ語が、四日市市民の日常語として使われるようになった1965〜6年ころから、磯津で水揚げされる魚は【くさい魚】として買い手もつかないありさまに加え、人間も変な咳をしたり、ぜいぜい発作が起こるなどの病気に見舞われる人の数が増え始めた。
    注射器など 磯津の開業医、中山医師は、「ぜんそくではないぜんそく様疾患」に「塩浜ぜんそく」と名づけ、発作止めの注射を打つなどにおわれるようになった。

     百万ドルの夜景と謳いあげる石油化学コンビナートの繁栄の影で、なにも悪いことをしていない住民たちが、コンビナートと言う外来語の次に、「公害」というこれまた新たな言葉で表現される苦しみにあわされていった。

    4.死んだ海

     エビ、カニ、スズキなど、うまい魚、高級魚がとれることで知られる伊勢湾。その伊勢湾で、油くさい魚がとれはじめ、犬や鶏さえも見向きもしないといわれるほどになった。四日市港を中心にした海域での魚は、とってきても放棄したり、値引きされたり、あるいは出漁を見合すなど、三重県の漁民がうけた年間被害は、1960年(昭和35)以降、8千万円にのぼると県は推定している。

     三重県が策定した「四日市地域にかかる公害防止計画」(1970年〔昭和45〕11月)のなかで、漁業について次のように記している。
     当地域の沿岸漁業は、カタクチイワシ、イカナゴなどを対象とした機船、船びき網漁業と、エビ、カレイ、貝類を対象とした小型機船、底びき網漁業が主要なものである。が、この海域は、1953年(昭和28)頃から、工場廃水に起因すると思われる異臭魚が出現し始め、1959年(昭和34)頃からさらに顕著となり、沖合い北東11キロメートル、沖合い東南7キロメートル、沿岸南方15キロメートルの範囲に分布しているものとみられる。
     漁業価値の低下が進行するとともに、港湾施設の拡張、臨海工業用地の造成がこれに拍車をかける形となり、漁業者数、漁獲量とともに減少しつつある。 ・・・・・・・・・・・このまま漁場環境の悪化が進行するかぎり、漁業者の生活維持が困難となる恐れがあるので、水質の改善が当面の急務となっている。
     くさい魚についての詳細はここでは触れないが、少しだけ付け加えておきたい。
     工場の排水を何とかしてほしいと再三、企業に頼んでも聞き入れない。こうなれば、停めるしかないと、磯津の漁師は、土のうと廃船を用意、1963年(昭和38)6月、三重火力発電所の排水口を実力封鎖するという≪漁民一揆≫をおこした。
     そうした騒ぎがあってはじめて知事が現地へきて、くさい魚の試食会をやったが、結局、排水口はそのまま、僅かな見舞い金で片付けられてしまった。

     1968年(昭和43)、四日市海上保安部に、田尻宗昭警備救難課長という、『海の男』が着任した。「こんなのは海ではない。工場のどぶ溜めだ。」と、たれ流しの摘発を行った。それで、企業も行政も、排水対策に努めるようになり、以前よりはきれいになった。とはいえ、海底は死んだままの状態であり、漁業は衰退をたどっている。

     また、漁業などの一次産業は滅びるもの、工業こそが栄えるもの、富をもたらすものという考え方や政策が、偽政者の中に根強くあることも否定できない以上、漁師にとっての明日は暗い。

    磯津の漁師 野田之一さんの話し

     わしら磯津の漁師がさ、この状態ではなっともならんでって、市長を囲む会を41年の5月に塩浜公民館でやったときにねえ、九鬼喜久男市長は、はっきりわしらに
    「いまどき漁をしている生活なんておかしいんで、ほかのことを考えるべきだ。敗戦国の日本がこんだけ今日の姿に立ちなおったんわ化学の力や、コンビナートのおかげや。人間のある程度の犠牲はやむをえん。」ってなこと言ってねえ。
     そいで、「漁師やっとるようなことでは、将来、取り残されるで、わしはそれが心配や・・・・・・・」って言ったでねえ。

    5.公害ぜんそく

     磯津は、四日市でも、ここだけは陸続きではなく、鈴鹿川で切り離され、四日市の南東に位置している。1キロ四方にも満たない狭い地域に、680世帯、2700人が、家々の軒をつらね、体を寄せ合うようにして生活している。先祖代代、漁業を中心に生計を営む漁師町(組合人450人)である。
     『磯津』という地名は戸籍にはなく、四日市市大字塩浜何番地が正式な地番であるが、四日市公害は、海も空も、ここから発した激甚地であり、四日市公害の原点である。
     磯津は、第一コンビナートと鈴鹿川を挟んで隣接している。当初は、中部電力三重火力発電所の煙突でさえ、70メートルもない低いものであった。また、昭和四日市石油なども低い煙突であり、プラントから吐き出されるガスも、特に冬季は、コンビナートの風下になるという季節風でもろに流れ込んでいた。そして、亜硫酸ガス濃度はしばしば1ppm以上に達し、2.5ppmになったことさえある。許容量0.1ppm(日本公衆衛生協会)からいえば、殺人的ともいえる高濃度汚染である。
     その磯津で、1960年(昭和35)以降、急速にぜんそく患者が出始めた。1964年(昭和39)までに約3%、40歳以上で約7%、50歳以上で10%という高い発生率となった。通常のいわゆる古典的ぜんそく患者の発生率は1%以下であると言われていることからいくと、まさに異常な状態である。
     磯津の人たちは、亜硫酸ガスもppmも知らないが、同時刻頃に、ぜんそくもちでない家の人たちが、ゼイゼイ、ヒューヒュー、のどがおかしい、発作が止まらんと訴えることから、これは工場のせいとしか考えられんと体で知った。
     亜硫酸ガスは、重油に含まれる硫黄が燃えて発生する有毒なガスである。1965年(昭和40)頃、四日市市で排出される量は、1日430トン、年間13万トンと推定された。これは、約2000個の浅間山の噴煙中にふくまれている亜硫酸ガスの量に匹敵する。しかも、南北約6キロ、東西約5キロメートルの狭い地域に排出源が集中し、排出されたガスも、その狭い地域に到達する以上、被害をこおむるのは明らかなことである。
     さらに、ここで使われる原油をスマトラやソ連産の0.1から0.5%のものに切り替えれば、10分の1程度に減少することはわかっていても、アメリカ資本と技術提携していることや、硫黄分の多い中近東産のほうが安価ということで、経済優先がまかり通ってきている。

    T.磯津の漁師、中村留次郎さんの話

     36年(1961年)に突然苦しい発作がきてね(当時56歳)。その時、磯津で60人ばか発作をおこしてね。重い人はいきなり、病院へ走ったですね。
     私もはじめ市立病院へ行ってさ。家内をつれてって毎日介抱させてさ。こんなものなおると思っていたら、内科の先生が「おそらく治りませんなあ・・・」って言い出したやろ、治らんってどういうわけや言うたら、「今、このぜんそくを治す薬も注射もない。ただ発作をおさえるだけや」と、こう言わした。これは、弱ったもんやなとおもっとったが、いちどき激しい発作は押さえてもらって2ヶ月ばかりで退院してきました。
     37年(1962年)からは塩浜病院(三重県立大学医学部付属)できびしい薬をもらってね。1週間1200円ずつ医療費を払ってね。だいたい1年と2ヶ月ばかり通院して過ごしてきたかなあ。
     39年(1964年)の1月がきたら、まあきびしい発作が再三くるので、中山さん(開業医)も、頼むで入院してくださいと言うし、子どもも、これじゃあ周囲がもたないというので塩浜病院へ入院した。
     金があるもの、縁故関係のあるものは遠いところへ行ってね。半年か1年と居ってくると、居る間は、絶対発作は起こらないし、体も回復してピチピチしてきますけど、また磯津へくると、10日ももちませんね。
     とにかくあらゆること、しゃばの人がいいということはやりましたよ。断食もしたし、座禅も組んだし、人間の焼いた骨がいいというので、それも1ヶ月のんだしさ・・・・なにしたところで治らない。

    U.藤田一雄さんの話

     家は磯津で、留次郎さんと一緒の36年(1961年)に病気になって、39年(1964年)の2月から、この塩浜病院へ入院です。
     私んとこは、家内までも公害にかかっとるんですわ。孫もこの暮れに恵まれたんですが、3ヶ月目に扁桃腺になって、この病院で手術したんですが、これは、公害かもわからんで、もうちょっと様子を見て公害の認定を受けてもらってはどうかと小児科の部長先生が言われるのですけど・・・(その後、その孫も、2人目の孫も公害認定患者となった)
    塩浜病院の空気清浄室より 実際、われわれはこうやって空気清浄室へいれていただいておるけれども、結局私の考えでは、大戦のときの防空壕ですわ。実際そうでしょう。一歩外へ出れば目に見えん亜硫酸ガスのために、ここへまた逃げ込まんならんという立場です。それでね、先生方も、この病気は絶対治らんということを言明して見えますので、もうお先真っ暗です。
     だいたい昼はあんまりガスを出さんので加減がいいわけですが、夜の12時をまわってみなはれ、ずいぶんひどい。風向きの都合もありますけど、無風状態のときは、ほとんどここの患者さんでも発作を起こします。こうやって二重ガラスになっておりますけども、これだけ厳重にしてもろうてもガスは少々入りますわ。そうすると、必ず、発作が起きて、夜勤の看護婦さんなんか気の毒ですわ。もう走ってきて、注射をうつんですわ。注射は発作の場合に一時押さえるだけでな。まあ、笑い話ですけれでも(窓越しにコンビナートが見渡せる)、このタンクくらい、なにして爆発せい、もうどうせ一生治らん病にとりつかれた以上は、どうなってもかまわんていうような、すてばちな気持ちも起こってくるわけですわ。

    V.野田之一さんの話

     わしらが病室(塩浜病院)から漁に行ったりするのを、医者や看護婦なんかも、患者が漁に出て行くってなにや、そんなバカなって、大反対やったわ。
     その時ねえ、何とかっていう大学の先生がね。普通は体を診てもなっともないじゃないか、異常の人もいるけど、そのほかの人はなっともないんやで、働く意志のある人は働いて、夜になったら病室で休めばいいんやでってね。それと、治るあてもないんやで働けるときに働いて社会復帰をした方がいいって言ってくれていたねえ。

     塩浜ぜんそくは、磯津だけで発生しているわけではなく、同じ頃、磯津とはコンビナートをはさんで反対側の市街地でも発生している。四日市ぜんそくの発作を起こして苦しむようになった一人に、後の、四日市公害認定患者の会を組織し、会長となった山崎心月さんがいる。
     心月さんは、1961年(昭和36)5月のある深夜、こつぜんとしてひどい発作にみまわれ,死ぬ苦しみに追いやられた。ぜんそく発作は主に、夜中から明け方にかけて起こる。のどがヒューヒュー鳴り、呼吸困難となるので、息をするのに大変なエネルギーを費やすので、朝、発作がやまってからも力が抜けてしまう。職業である僧侶としての朝のお勤め(読経)はもっぱら無声でやり、檀家まわりはお昼過ぎからやり、外出のときはいつも携帯用の吸入器を持参していく。

     こうした「四日市ぜんそく」について、専門家はどうみているのか。三重県立大学医学部で、当時(1971年〔昭和46〕)塩浜病院長をしていた宮地一馬内科医師の話である。 

    W.宮地一馬内科医師の話

     普通ぜんそくと言われる人のですね。家系を調べてみると、つまり、兄弟、両親ですね、三親等まで調べてみますと、普通一般にぜんそくと言われている人たちは、やはり、50%以上くらい、誰かがぜんそくにかかっているということがあるんです。
     ところが、いやゆる四日市ぜんそくの人について調べてみてもですね。これが、非常に少ないんですね。20%程度なんです。これは少ない。
     36年(1961年)以降ですね。汚染地区で多いものというのが、気管支ぜんそく、それから前眼部疾患ですね。ま、目がパチパチするというようなもの。ところが、他の病気はほとんど関係ないということなんです。
     ぜんそくというのは、一回かかると、なかなか治らないんです。慢性気管支炎、これは、ぜんそくよりも治るんです。はっきりいえるのは、慢性気管支炎というのは、大気汚染のないところではほとんどないということで、慢性気管支炎に関しては、確かにこれは大気汚染の関係だといえるんです。
     37、8年(1962,3年)頃がピークで、近頃は横ばいのようです。まあ、ある程度会社あたりもいろいろ対策を立てただろうと思うんですけど。
     われわれ〔塩浜病院〕のところに、4ベット:6室の空気清浄室があるんですが、市に医療審査会ができて、治療費を市が負担するようになったのが、40年(1965年)からですね。だから、その年の6月に作られたわけです。そして、認定患者さんを収容するということになったわけなんです。これは、活性炭で外からの空気をろ過して中に入れるということなんですね。それで、外の大気圧よりも室内の圧力のほうが少し高めになっているんです。だから、窓をちょっと空けても、外から中に入らないようになってるんです。中から外に空気は出ていきますけどね。
     だから、こういう風なところに収容したらいったいどういうことになるかというのを、これも調べてみなきゃいけない。
     そこで、A群というのは、大気汚染の始まる以前から気管支ぜんそくであるというような人なんですね。
     それから、B群というのは、35年(1960年)以降、大気汚染が始まってからぜんそくになり、慢性気管支炎になり、肺気腫になった人なんです。
     こういうふうに分けてみますと、非常に面白いのはですね。空気清浄室にA群の人もB群の人も収容いたしますと、B群の人は非常に症状がよくなるんです。ところが、A群の人はあんまりよくならない。これは、3ヶ月間のことですがね。

     具体例ですが、この磯津の方なんですが、沖合いに漁に出て行き、夕方帰ってくると、コンビナートの近くにきたら突然ゼイゼイいいだしたというようなことですね。この人なんかも、寝苦しかったからちょっと窓をあけて寝とったと。そうすると、何か知らんが急に息苦しくなったというような起こり方をしておるわけです。だいたい、そういう起こり方ですね。
     それから、発作は、昼間はありませんから・・・ほとんど。だから、外へ仕事に行かれる方でもですね。夜は、みんな空気清浄気室で寝ておられるんですよね。

     四日市の大気汚染によって発症したぜんそくの特徴を要約すると、次のようになる。

    1. 比較的高年齢で発症する
    2. 発症した当初は汚染環境から離れれば回復する者が多い。
    3. 難病となる者が存在する
    4. いずれも室内塵皮内反応陽性率は低く、ぜんそく家系を有する者も少ない
    5. 血清IgE値は、一般のぜんそくに比べて低い。

     しかし、ここのぜんそく患者について、大気汚染がなければ発症しないですんだのに、大気汚染があったがために発症したという患者を鑑別する方法は、今のところない。

    6.住民の動き

     「四日市ぜんそくという言葉自体は、マスコミが作った言葉で、医学的には、これは別問題ですね。」と、宮地教授は医学者の立場で言う。その反面、ぜんそく患者や汚染状況を調査した結果から、「四日市における大気汚染環境下では、ぜんそく性の疾患が多いということがわかります。だから、こういうことから考えるとですね。なるほど、マスコミが報道してくれたのはウソではなかった。」とも話している。
     たとえ医学上存在せず、マスコミが作った病名であるにせよ、現に発作で苦しむ人たちが多発しており、住民は、相手になろうとしない企業よりも、手の届きやすい、市・県の自治体にむけた対策をせまった。
     磯津を含む24町で構成されている塩浜地区連合自治会は、1960年(昭和35)4月、「工場地帯からの騒音とガスで、夜もおちおち寝ておられない」と、市に陳情した。これが、大気汚染では最初のまとまった住民の動きである。
     陳情を受けた平田佐矩市長は、市長の諮問期間として「四日市市公害対策委員会」を1960年(昭和35)8月に発足させた。委員は、市議4人、工場代表4人、学者3人という構成で、人体への影響(水野宏名大教授)、大気汚染測定(吉田克巳三重県立大教授)の基礎データをまとめていった。
     塩浜地区連合自治会は、その後も活動を進め、1961年(昭和36)9月には、地区住民を対象に実施したアンケート調査の結果を発表。結論として、

    1. 工場誘致は、必ずしも市の発展にならない。
    2. 公害防止策の早急な制定を。
    3. 公害による人体影響は老人と子どもに特に著しい。

    と、すでにこのとき、石油化学工場誘致と公害のマイナス面について警鐘を鳴らしていた。
     明けて1962年(昭和37)には、田中覚知事にも、公立病院での無料診療、公害防止条例の制定などを陳情。無料診療とまではいかなかったが、塩浜病院での公害病無料検診は実現した。

     公害病の無料診療については、その後、自治会財政による診療費負担という実力行使、1963年(昭和38)、四日市医師会の「公害が原因と思われる疾病」とカルテに記入する実力行使、市議会での働きかけ、そして、人情家平田市長の決断ということがあって実現した。
     これらはなによりも、こんなにひどい、こんなに苦しむ患者をほおっておいていいのかという『恐るべき公害』の状況が存在していたということに他ならない。 

    T.塩浜地区連合自治会の運動

    今村嘉一郎会長の『公害と地域住民』(1963年〔昭和38〕11月)より
     塩浜病院の産業医学研究所での無料検診は、あくまで基本的調査の域を脱せず、公害に苦しんでいる地区民にとっては到底納得できず、治療投薬の処置まで無料にすべきを強く交渉を重ねたが、県・市はあくまで公害に起因するとの医学的判断の困難さや、予算面、あるいは他地区へ及ぼす影響の重大さを考慮してか、これに応ぜず、ここにわれわれは緊急自治会長会議をもって対策を協議し、県・市頼むに足らずとして治療費を全額連合自治会にて負担する決意を固めた。
     このことは、暴挙として一部のそしりを招くおそれもあったが、やむにやまれぬ不満への抵抗であり、又一面、地区の苦しみを見るにしのびざる気持ちが動かしたものである。
     この無料検診は、約3ヶ月継続されたが、県・市はこの状態を捨て置くことができず、地区全般の一斉検診をもってその結果を重視し、処置をとることの話し合いができた。

    U.四日市医師会の認定制度推進

     自治体が患者認定制度を設けていこうとしても、開業医などの協力がえられないことには、実施が難しい。幸い、このときの医師会は、後に『公害訴訟を支持する会』の代表委員にもなる医師会の長老役の小谷眼科医が、「医師会の理事は、明治生まれではだめ、若手で活躍を・・・」と呼びかけた。そして、二宮辰雄会長以下15人の理事はすべて若手で、『地域社会に貢献する活躍を』と、増えつづける公害患者の診療にあたりながら、自分たちの手でも何とか対策にあたりたいと、1964年(昭和39)1月、医師会に『公害対策委員会』を発足させた。
     同年7月、六項目の公開質問状を平田市長に提出した。

      これは、質問というより要求であった。8月の臨時総会では、「今後、臨床により、明らかに公害によると診られる患者を発見した場合は、その旨をカルテに記載、国や県・市町村などに通告して、真剣に公害防止策を練ってもらう。」との強硬方針を決めた。
     これには、医師会内に慎重論があり、日本医師会の武見会長なども、こうした構想に気乗り薄だったようだし、「市費負担は筋違い」との本質論による反対もあった。
     しかし、毎日、発作に苦しむ患者を診療している医師にとって、『原因が明確にならなくても、企業負担が原則だとしても、まず、目の前にいる被害者の救済が急務である』と、こうした非常手段をとることの必要性が決められていった。

    V.市公害医療審査会の発足

     医師会の質問に平田市長は、「各関係期間と話し合って正式回答する」と約束したこともあり、県との話し合いに入った。
     磯津の住民検診の結果、8人はろくな診療も受けておらず、放置すれば死ぬかもしれないという状態にあった。検診にあたった三重県立大学医学部の吉田克巳教授は、県と再三交渉、研究費という名目で県に医療費を負担させた。
     1964年(昭和39)1月以後、塩浜病院へ入院させ、市の認定制度発足の足がかりを作ることになった。しかし、県は、市長との折衝に対し、逆に、8人の入院費は3ヶ月だけで、あとは市に肩代わりさせ、あげくの果て「県として医療費負担は無理」と言い出すありさまだった。
     被害者にとっても県は、遠い存在であった。
     コンビナート企業も、そうした金を支出すれば、公害を認めたことになるとして出さない。

     市長は、かくなる上はと、磯津の住民検診の結果をもって厚生省へ出かけていった。だが、けんもホロロに断られてしまった。こうした逃げることしかない関係機関に腹を立て、今にきっと国(厚生省)を見返してやると決意を固めた。
     平田市長は、製鉄会社社長から市長になった人である。法規条例にしがみつく役人根性といったことはなく、伊勢湾から琵琶湖を通り日本海へ抜ける運河を作りたいと建設大臣張りの構想をぶち上げたりもした。また、磯津の漁師が、「くさいって魚を買ってくれん、この魚どうしてくれる」と、自宅までかけあいにいけば、「それではかわいそうだ。わしの金で買ってやる。」といった人情家でもある。
     とにかく金でこの急場がしのげるならと、1964年(昭和39)12月の記者会見で、「ぜんそく患者の治療費自己負担分は市費で支払う認定制度を発足させる。」と発表した。
     この要綱は、結核や原爆などのケースを参考にして作り、1965年(昭和40)2月、「四日市市公害関係医療審査会」が正式に設立された。会長には、推進役だった二宮医師会長が選ばれた。席上、市長は、「公害は現実の問題だ。医学的な証明がないからといって苦しんでいる市民を見捨てることはできない。国や県の決定を待っていてはいつのことやら・・・治療費が足らなくなったら追加予算でつける」と発言、決意のほどを披瀝した。
     認定要綱は、次のとおりである。

    四日市の汚染地区に3年以上居住(ただし、3歳未満はこのかぎりでない)し、医学検査の結果の資料を審査会が審査した結果、大気汚染に関係があると判断される閉塞性呼吸疾患としての肺気腫、ぜんそく性気管支炎、気管支ぜんそく、または慢性気管支炎症状およびそれらの続発症状があると認められる者を認定患者とする。

     医療費の自己負担分を市で負担するというものであった。

      医師会の中心となって活躍した小柳医師は、「医師会のヒューマニズムは当たり前、偉かったのは市長のヒューマニズムです。しかし、制度発足の心の力は、民衆の声。市議会では、訓覇也男(くるべまたお)議員らが制度発足を助けてくれました。私は、認定発足の運動を『住民一揆』と呼んでいます。」と、取材に行った中日新聞記者に誇らしげに語っていた。
     四日市公害の中で、「住民一揆」と呼ばれるような『騒動』がないと公害対策は前進しないことを、この認定制度においても証明したことになった。

    7.公害病認定制度発足

     医療審査会委員会は、医師会より2名、塩浜病院長、市立病院長、県立大医学部2名の、6名で構成された。第1回の審査会が1965年(昭和40)5月に開かれ、申請のあった18人全員が認定された。
     18人のうち12人は磯津の人で、すでに塩浜病院へ入院している人たちであった。病名は、肺気腫10人、気管支ぜんそく5人、慢性気管支炎3人で、入院を要するとされるのは14人であった。うち子供は2人。
     市独自のこの認定制度は5年後の1970年(昭和45)2月から国が施行することになった『公害に係る健康被害の救済に関する特別処置法』の制度に引き継がれていった。
     引き継がれるまでの5年間の間に認定された患者数は717人にのぼっていた。

     四日市市は、これによって、国を見返してやったことになったが、こうしたことも含めて四日市は

    1. わが国初の石油化学コンビナート建設
    2. 公害ぜんそくの発生の都市、独自の認定制度(後に国が施行)
    3. 公害ぜんそく大気汚染訴訟
    4. 四日市の企業(財団)による患者への補償(後に国の補償法に移行)
    5. 公害罪法による摘発・起訴・一・二審有罪、最高裁無罪(日本アエロジルの塩素ガス流出事件)
    6. 港則法違反による摘発・起訴・有罪判決確定(石原産業の廃硫酸たれ流し事件)

    と、いつもそのさきがけとなっている。
     その評価は別として、まさに四日市は『公害の原点』として存在するようになったわけである。
     ともあれ四日市では、市独自の患者救済の制度発足により、片一方の手で依然として公害発生源となるコンビナートの新増設を進め、もう一方の手で、それによって被害をこうむった公害認定患者の救済を進めるという、相矛盾した政策を進めていたのである。
     こうした矛盾は悲劇を生みやすく、加害者は肥大し、被害者は自らの手で命をたつものまで現れた。

    T.中村留次郎さんの話し

     公害患者でも、これはおとなしいからいかん。やればいいんだ。私らにも生きる権利があるんだ。こんな泣き往生してね、相手にこんだけ踏みにじられたことをされて、働けない姿にされて、入院しなければならないような病気に、有毒ガスをもってきたんだから、こんなものやったって正当防衛ですよ。どんだけ頼んでも、どんなこと言うてお願いしても、相手が言うことを聞かないんだから、・・・そりゃ人間、堪忍袋の緒も切れるし、やらなきゃならん。自分が生きるために、相手が凶器もっとらんだけで有毒ガスをもっているんだから。やらないのがおかしいんで・・・・・。

     体の具合がよいのと、風向きが逆だというので、この日、留次郎さんは、病院を抜け出し、コンビナートを窓越しに見ながら、奥さんと自宅の居間で、1日、80円になる網の内職をしながら語っていた。

     留次郎さんの語ったことは現実となり、1966年(昭和41)7月、大協石油の近く稲葉町に住む木平卯三郎さん(76)が、「死ねば薬もいらず楽になる」と、自宅で首つり自殺をしてしまった。
     その木平さんの追悼と抗議の集会の際、生まれてはじめて木平さんの遺影を持ち、行進の先頭にたった十七軒町で製菓業を営む大谷一彦さん(60)が、明くる年の1967年(昭和42)6月、「今日も空気が悪そうだ」の一言を残して菓子工場で首つり自殺をしてしまった。

    U.大谷一彦さんの日記と未亡人の話

    ◆1965年(昭和40)5月1日
     メーデー。北条グランドへ行く途中、苦しくなって抜け出し、市立病院で診察を受ける。
    ◆同年5月16日
     (湯の山の知人宅)実に静かなすんだ空気に包まれ、安心して眠った。
    ◆同年5月19日
     (湯の山の知人宅)で静かな朝を迎える。閉塞性ゼンソクをわずらわせた公害の加害者に腹が立つ。
    ◆1966年(昭和41)4月26日
    大谷さん 午前2時頃、セキが出て目がさめる。がまんできず車で病院に向かう。病院に着いて一服するといくぶん落ち着いた。夜中で迷惑をかけまいと診察を受けず車で湯の山へ行く。新鮮な空気に回復、家路に向うが自宅方面スモッグ充満、そのまま方向をかえ鈴鹿方面に飛ばす。明け方帰宅。工場の段取りをしているうちに再発、ふとんを用意して病院に行く。昨夜のスモッグは確かにひどかった。公害パトロールは何をしているのか。平然と夜中に毒ガスをまき散らしているのに。自分は逃避できるが、できない人はさぞかし大変だろう。
    ◆同年6月3日
     午後5時すぎよりスモッグひどい。亜硫酸ガスのためセキやまず。弁当を作って早々に家を飛び出す。ああ残念。家にいたくてもさびしいところに行かねばならぬ。くやしい。九鬼市長ゼンソクやってみろ、わかるだろう。公害の影響で死にたくない。

    ◇未亡人の話
     そりゃもうねえ、苦しんだ人じゃないとわかりませんけど、もうはたで見ているほうが辛いくらい苦しんでおりますね。4、5月頃ですか、その時分は、しょっちゅう毎晩のようにねえ、自分一人で自動車に乗って、まあ空気のきれいなところまで夢中で逃げていきましたけどねえ。もうそれがしまい頃には、ほとんど自動車で行く気力がなくなったわけですね。それでもう、自分が心身ともに疲れ果てて、ああいう結果になったんですけど。

     この年の10月には、塩浜中学3年生の南君枝さん(15)が、修学旅行を楽しみにしていたのに、気管支ぜんそくで亡くなった。追悼・抗議集会には、「南さんは死んだのではない。殺されたのだ。」とのプラカードも掲げられていた。

    V.谷田尚子ちゃんのこと

     公害ぜんそく訴訟判決(1972年7月)の2ヶ月後の9月2日、公害病認定患者で、中部西小学校4年生の谷田尚子ちゃん(9歳)が亡くなった。学童では、1970年11月に亡くなった海蔵小学校1年生の保田精一くん(7歳)についで2人目。


    20日すぎてから、ずうっとぜんそくがでてあまりやることがしていない。でも、さんすうは、すきだから最初にしといたのでぜんぶしてある。
     2学期になったら、グループは女どうしになりたい。係はもう一度、国語係になりたい。


    朝日新聞の記事(1972年9月3日)より

    8.公害裁判とその後のこと

    T.患者側勝訴判決

    裁判勝利 公害患者が増える一方なのに、患者救済や公害発生源対策が進まず、おまけに、新たな公害発生源となる第3コンビナート誘致のため、霞ヶ浦の埋め立てを市議会が決めるなど、開発優先の政策が推し進められた。
     憲法第25条の「生存権」が脅かされる状況の中、1967年(昭和42)9月、磯津地区に住み、県立塩浜病院に入院中の公害患者9名が、隣接する第1コンビナート6社を相手どっての公害訴訟(裁判)を提起、津地方裁判所四日市支部で審理が行われ、5年目の1972年(昭和47)7月、患者側「勝訴判決」が下されました。

    U.公健法の制定と認定制度の廃止

     勝訴判決によって、原因となった亜硫酸ガス(SO2)の排出を減らす総量規制、工場内の緑地率を増やす法律(工場立地法)の制定、公害患者の生活保障も含めた法律(公害健康被害補償法)の制定などにより、公害対策は一定の前進をみた。
     こうした対策により、SO2の排出は減少、濃度も年々減少したが、NO2(二酸化窒素)やばいじんについては安心できるところまでいっていないのに、1988年(昭和63)、全国41指定地域のうち、四日市市長など6自治体の首長が賛成、大多数が反対のなか、国は公害患者の認定制度を廃止してしまった。

    V.公害患者さんたちの今

     四日市の公害認定患者は多いときで1140名を数え、現在でも500名(2004年)ほど居り、認定制度がなくなったとはいえ、同じ症状のぜんそく患者の発生もあり、公害「克服」「終結」などと言ってすます状況にはなっていない。

    認定患者数の推移