四日市公害裁判 原告患者
野田さんの「伝えたい思い」

1999年、10月22日、塩浜小学校で、社会見学(公害学習)に訪れた市外の小学校5年生の質問に答えたときの話

みなさんの質問に答えたいと思います。

油くさい魚はどれくらいくさかった?

これは、油臭い魚って食べたことない?この魚臭いというのはね、要するに、油とかゴミとか今の化学洗剤とかに汚染されたものだからね。洗剤のにおいと油のにおいがついてね、ちょうど、あんたたち軽油のにおいって・・・・?においはあんな感じ・・・臭いさかなをもし食べたかったら、今でもまだありますもんで、言ってもらえれば食べてもらえます。

溶けたスクリューを見てどう思った?

かねが溶けたということは、硫酸なんかやとかねが溶けるわな、石原産業が公害裁判中に摘発されて、裁判に負けて、賠償金支払ったという石原産業というのは、硫酸を海に垂れ流しとったわ。だからね、その付近を航海したり、そんな近くで漁をしとったりすると、船のスクリューなんかもろにやられてしまう。溶けたというより、くさったんやね。で、その付近の家でも、昔はみんなとたんの雨どい。雨どいなんか1年もたんだ。みんなくさっててね。これというのは、イオウというか硫酸というか石油精製に対して、イオウが副産物としてできた。今は、脱硫装置なんかつけて、ちゃんととってますけど、その当時は、垂れ流してほりっぱなしやから、硫酸の雨がふっとった。だからねえ、くさってくるわ。船のスクリューがくさってくるというのは、要するに、わしら、自分の足がくさってくるんやで。いったいどうなんのやろと、もうそのうち伊勢湾に生きたもんおらんようになってしまうんじゃないかと心配があったけどね。その当時の漁師にはね、どうすることもできやんだんや・・・・・・

海はどれくらい汚れていたのか?今でも汚れているか?

ボラやスズキなんかはね。今でもたくさんとれるけど、当時のイメージがあるから、この付近の人は、今でもボラは食べません。ボラが一番臭かったからね。そのボラがね、手づかみできるほど捕れとった。要するに、ボラを捕る人がおらんから、ボラも逃げやんだわけ。極端な話するとね、そのへんのみぞにね、変な魚がうようよしとるわね、あれと一緒でねえ、・・・汚れとったと。どれくらい汚れとったかというと、まあ、なんていうか、海というのは、海底があって、砂があって、泥があって、その砂や泥の中に、シャコとかエビとかが生息しとったわね。今はやかましい言われとるけど、当時は、ポイ捨てやね。それが、川に流れて、海に流れて、下で生活しとるシャコやエビの上にかぶる。そしたら、エビやシャコは死んでまうわな。頭から鉄かぶせられるんやで、死ななしゃあないわねえ。まあ、そういう形で海が汚れた。現在、この広い伊勢湾でも、鈴鹿、白子付近から、だいたい名古屋のへんまで、もうほとんど伊勢湾は死んでます。私はこれ漁師してますけど、朝3時に起きて白子より1時間も1時間半も高い燃料たいて行って、そこで、漁をして帰ってくるんやから、 ま、地図の上では広い伊勢湾やけども、この伊勢湾は、半分死んどる。要するに、人間が回復さすのには、まず、不可能かしらと今の時点で私は、そういうふうに思います。だから、今後の課題として、若い子供さんたちが、関心もって、この汚れた海をきれいにしてくれることを私らは、期待しています。

ぜんそくはどんなに苦しかったか?

これはねえ、よく私ら、どこへ行っても質問されることや。あんたたち、小児喘息やったことある人おる?
そのぜんそくになった人にたずねんるんやけどねえ、どんなふうに苦しかった?
こきゅうすんのがくるしかったやろ、 あんたたちに質問するけど、生まれてから5年生になるまでの間に 人間生きていく以上は、呼吸せなあかんのや。息吸うたり、吐いたり、 24時間ずっと呼吸するやろ、いっときたりとも休めやんのや。でも、この息を吐いたり吸うたりということをね、あんたたち、意識して呼吸したこといっぺんでもある?無意識のうちに『すー、はー』って、吸うたり吐いたりして、生活しとるやろ。寝とるときでも自然としとるはずなんや。でもねえ、ぜんそくになるとねえ、この吸うたり、吐いたりするのが非常にえらいの。これねえ、注射打ってもらったら直るの。注射打ってもらうまではえらいから、『これなあ、俺、死ぬまでこんな苦しい息せんならんのやったら、もう死んだろかしらんと』まず自殺した人はこれに負けて、自殺したと思うし、私は、これ、相当野暮ったい、がむしゃらな人間やったんやけど、時々、あのー、発作がひどいときには、『俺、死ぬまで、こんな苦しいきせんならんのやろか、えらい病気やなあ。こんなえらい病気ないなあ。』と思たねえ。
ぜんそくの苦しみって一口で言うとそういう形。
だから、どういうふうに苦しかったかというと、説明、これ非常に難しいわ。そのそう(人、年れい)によって違うから。大人の私ら、その当時30歳代や。20かん、100キロくらいのもの腕でさしあげよったけど、そのくらい力があったけど、それでも、苦しいから、玉の汗かいて苦しんだ覚えがなんべんかある。
そして、やっと気がついたときには、先生が注射打ってくれて、あっ、またこんで助かったんやなって思ったこともなんべんかある。
ぜんそくの苦しみって一口で言うとそういう形。

でもまあ、一つ救われることはねえ。塩浜病院ていう空気清浄病室に入院しとるからね、そこへ入って、発作止めの注射打ってもらろて、打ってもらうと5分もせんうちに息できるんや。だからねえ、これ助かったわと思てねえ、苦しい中にもおさえる注射があったから、私ら救われたし、そいで、ある程度、楽観しとったというのもある。苦しいのには違いないけどね。でも、手や足切って、痛い痛いというとるんじゃなくて、注射を打ってもうたら、直ってくというそういうこともあったから、まあまあ苦しみのなかでも救われることがあったかなあ。

仕事ができなかったときの気持ちは?

大人にならなわからんと思うけどもね、私は、一応、家庭人やで家庭を持って女房や兄弟をやしなって生活しとったんやで、仕事ができやんとなると、これ非常に寂しい。ほんでねえ、なぜ、おいらはこんにね苦しめられて、仕事ができやんのやってまず第一番目に思う。その気持ちを教えてくれといわれると、今では、遠い過去のことのように思われるけど、なんかねえ、目の先が真っ暗になってねえ、これは、いったいどうしたことや。俺の一生しまいかいなと、これ、ぜんそくで苦しめられて仕事ができやん、苦しめられて、こんな病院で生活せんならんなあ、俺の一生は終わりかいなと思た。まあまあ、それにつきるねえ。だから、そのときの気持ちっていうたら、これもたとえようがないなあ。
これはみなさんが大人になったら分かると思うけどね。そういうあの、・・・この気持ちは、苦しいときやなけりゃ分からんと思う。

どれほど毎日が大変だったか?

これはねえ、私らねえ、あの、四日市とかねえ、行政の方が一番先ばなやったかな。だからねえ、公害でくるしんどる人はねえ、あの、治療だけは受けなさいよと、面倒はみてやるという形でねえ。やってくれた。だからねえ、治療はできる、ぜんそくのね。でも、生活の面倒まではしらんと、これは今でいう社会福祉の人がねえ、わたしんところへ調べにきてねえ、生活保護うけんのに、おまえらこれどんな生活しとんのや、ちゅうようなこというてきた。だけど、私はそんとき、なにいうとんのやと、わしらをこんな病気にさせといてやなあ、・・・・昔の漁師だってなあ、おまえら役人の世話になる必要ないのやしなあ、おれはする気にはなれやんと、おまえら勝手に福祉で生活みたるっていうんやったら、おまえら勝手に調べてけ、おれはそんなん受けたい人間やないわい。そんなん、あてにしとらんわってねえ、福祉の人追い返した覚えがあります。

だからねえ、この病院に行ったらねえ、病気は、助かるんやから、注射を打って直るし、そして、幸いにして漁師やもんでねえ、この伊勢湾の南の方に行ったり、広い海に行けば、空気が正常であるから、そこで、仕事するには、なんの支障もおこさんし、私らも今まで通り仕事できるから、先生たのむで仕事さしてくれ、うちのもの養っていくのに生活できやんやないかということで、当時の先生の了解を得て、そして、朝三時になると看護婦さんに起こしてもらって、病院のベットから抜け出して、うちへ帰って、うちの女房に弁当作ってもらって、それを持って、船に乗って、漁に出ていた。そして、夕方まで働いて、帰ってくる。うちへ行って、風呂に入って、晩飯食べて、やれやれと思う。先ほど、昼間は漁に出るというたけど、日中は、硫酸や亜硫酸ガスやそんなもんは、上へいっとるけども、空気が冷えたりなんかすると下がってくるんかなあ。だからねえ、(発作は)朝晩に多いんや。この土地の人はねえ、会社ちゅうのは、昼中はある程度そういうものださんといて、夜になるとそういうもの出すというねえ、そういう偏見か事実かしらんけども、そういう言い方をされとった。そして、やっぱりねえ、事実夜中とか夜明けとかが発作が多かった。だから、仕事から帰ってきて、体休めると発作が出る。これはもう家では寝られやんわとほいで、病院飛んでいって、今は健康センターになっとるけど、空気清浄室っていってねえ、これぐらいの部屋で、12人くらいおったかなあ、本当は6人(部屋)ですけど、場所は、これぐらいにすっと、12人くらい住めたわねえ、空気清浄室ってねえ、浄化したきれいな空気があってねえ、きれいな空気のなかで私ら守られとる、安心して寝られるわけ、そうして、夜が明けるとまた、看護婦さんに起こしてもらって漁に出ていったと。だから、そういう形で仕事に行くことができたといえるわね。

まあ、毎日がどれほど大変だったかというと、まずはねえ、一般の人は、土曜日、日曜日というと、家族を連れて遊んだりなんかしたけど、私らは、昭和30年代後半から40年代というのはねえ、24時間何にもなかった。ただ、病室と家の往復でね、このまま終わったら死んでいくしかない。死ぬのをまっとるだけやけど、でも、このまま死んではいけやんし、かというて、家族を守る義務もあるし、悲壮感というかそういうねえ、先の見えやん暗い生活がねえ、約十年以上続いたかな?だから、裁判に訴えたということもいえるやろう。

工場や企業や行政にどんな気持ちでいたか?

昔私らが生まれたときは、ここは田園地帯で、百姓と漁師が生活しとってさ、だからねえ、公害というものは何にもなかったんやね。ところがねえ、工場ができたわけ、この工場ができた時点ではねえ、私らこの地域の人は、非常に喜んだ。大きな工場ができるんやないか。日本の中心になる三菱やそんなんがきてくれて、大きな工場を造ってくれるんやと、こりゃあ、四日市も大都会になるんやと喜んだけど。でも、その当時、 この工場の建設に携わった外国の技師の人がねえ、『あんたたち極端に喜ぶけれども、工場できたらこの土地で生活できへんぞ。』『なにいうとんのやおまえ』ていうたらねえ、『ほんとにねえ、こういう工場っていうのは、アラビアの原野で石油を精製しとった工場をそのまま持ってきとったらたいへんやから、こんなもん人が住んどる真ん中にきて建ったら、周りの人は住んでおれるのか』と、『そんなばかなことあっかあ、これは、あのひとのやっかみや』ってねえ、私らいうとった。鼻で笑わらっとった。
でも、4,5年先には、こうやって、公害が現れてきた。ところが、私らぜんそくになる、何にもなかったところにこんな公害が出てくるっていうことは、工場や。そいで、自治会にいうて、工場に訴えに行ったら、『うちじゃない』また次の会社に行ったら、『うちじゃない』次の会社に行っても『うちじゃない』そういったら、いったいどこやと、ねえ、私そのときに非常に残念に思ったことはねえ、『うちじゃない』ということはねえ、『俺じゃない、おまえだ』ということといっしょや。罪を人になすり合いするその根性にねえ、本当に私は頭にかちんときた。『よしそうかおまえらそんな気持ちか』と。
そいで、今度は、行政に行った。『こんな、俺しらん、工場のいうとることは俺は、しらん。国の規制をちゃんとまもっとる工場が操業しとんのやから、俺はしらん』と。『ほんとにいったいどこへ行ったらええのや。俺は知らん、俺は知らん。』そうこうして悩んでおるときに、ここに居る澤井さんとかそういう善良な人に、『おまえら、そんなにくるしんどんのやけど、こういう助かる道があるんやぞ。』と法律があるから、その法律に照らし合わせてみなさいと言われて、そうかと、どうせあかんもんならな、いっぺん裁判、日本の国に法律があったら裁判に問おうじゃないかと、まあ、そういうようなことで、裁判を起こす気になったから・・・・・・

裁判に踏み切ったときの気持ちと裁判をしていくときの苦労は?

そういう矛盾したなかで、私らがねえ、生きていくためには、この道しかないやないかと、もしな、裁判に負けてもええやないかと、裁判に負けたらしょうがないやないかと、だからねえ、地域の方は、大きな日本の国を相手にして三菱やこんなんを相手にして、そんなん勝てるかと、みんなせせら笑っとった。 でも、私らとしてはねえ、 この方法しかないやないかとね。これ、選ばなしゃあないわね。まあ、こういう気持ちでねえ。裁判起こした時点では、裁判に勝てるという気持ちは、これっぽっちもなかった。だからねえ、はっきりいうて私らも意地としてねえ、裁判の最中で、企業が『俺んところかもわからん、俺が悪かったな』という、一言わびが入ったら、裁判を取り消したかもしれんしね。まあ、そんな中で、裁判が進んでって、まあ、なんていうか、まわりの人らが裁判を進めてくれたから、私らでは、そんなことできへんからな。だから、そういう形で裁判を闘ってきた。だから、裁判に協力してくれた人たちには、いまだかつて、頭が上がらん、はっきり言って。でも、この人たちが、何がためにこうしてくれたかと言われると、その当時としては、おせっかいかおひとよしとしか私は思わんだ。でもね、今思うとその人らはね、このまま大事な地球をね、人間のエゴで勝手に汚していくやないかというね、そういう危機感に立ってね、考え、これはやっぴし、頭がある人らは違う。我々の知恵やったら、このまま地球を汚し続けて、近い将来、地球は滅びてしまうかも分からん。でも、ええときに立て直してくれた。環境基準を守るように法律も作ってくれた。そして、企業もこんなに古い煙突ではあかん。高い煙突作れ、なにせえというてね、何千億という莫大なお金をかけた。だからね、裁判の判決としては、私らに対して、一人あたり五百万、一千万と、考えてみれば、自分の命の値段としては、あまりにも安い金額ではあったけれど、でも、企業がかけたお金のことや、地球改善に向かって整理が進められたということは、大きな意味があったなと、だからやっぱし、支援してくれた人は、こういうとこまで考えとったなあと、今つくづく私は思います。
そして、今この子どもさんたちの前で大きな顔して言えるのは、もしあんたたちがこんなしんどい環境におうたときには、負けやんと私らみたいにがんばってくれ。それで、今の子どもさんたちがわしらといっしょの道を進まんとも限らん。でも、こんなことしたらね、この二つとない地球は滅びるやろ。ねえ、私いっつも笑うのやけど、くさい魚っていうてもこのとおりや、人間空気がくさいだけでも、小言いうて裁判起こすのにね、死んでいかんならんこのくさい魚の例にとってみても、もし、魚が裁判を起こす権利があったら、人間は死刑やろ。『おら、天然ですんどったのに、住めやんようにしたやないか』と、もし、説教されたらそんなこともあったやろうと思う。だからね、これは、今でもよく言われるけども、戦争で負けた日本が今日にあるということは、先進国の仲間入りできたということは、こういう犠牲があったから、なった、と言われる人も多いけども、そりゃ、確かにそうやろう。当時私ら、食いもんもほんとにあらへんだし、着るもんも着やんだ、だから、海を汚したらいかんという、一番自然の中で生きとるわたしらがね、洗剤をつこて、平気で洗剤の水を海に流すでね。これは、生活悪や。だからな、そういうことやいろんなことを考えると、もしこの子どもたちにこの公害ということについてどういうふうにいうたらええかと言われるけどねえ、そうねえ、この裁判を起こすときの気持ちとか裁判をしていくときの苦労というのはね、そこまでは考えやんだけども、今思うと、そういうメリットがあったでこそ、裁判は勝てたんかな・・・やっぱし司法の中にもそういうものを工夫しとる人もおったし、我々みたいにもし、ふびんなものを救うために、この裁判、勝てたんかというと決してそうじゃない。だから、日本の政治が、経済が発展するために、無理矢理進めたという政治であったから、直すために、この日本を助けてくれたとも考えられる。そういう意味においては、四日市は公害裁判の原点とか何とかと言われるけど、でも、私らとしては、そんなたいそれた夢を持ってやった裁判でもないし、ただ自分が助かりたいために、このままおっても死んでくやないかという中で、この裁判を起こしたいうようなわけであるから、一般の遠い地域の人たちが評価してくれるような私らは英雄でもないし、良心があったというわけでもなかった。まっ、でも、今、そういう観点からみれば、やっぱりそういうこともあったかなあとも思いますねえ。だから、裁判に協力してくれた人には、私ら終生頭が上がらん。

裁判に協力してくれないまわりの人、親戚の人には、どんな気持ちでいましたか?

自分が助かる以上は、人が死んでいくのはやむをえんやろう、これは、漁師町のねえ、ルールとしてね、『隣が苦しめば、自分がもうかる』というねえ、これは漁師町のルールであるから、だから、隣が苦しんどるのぐらい、、まあ、俺も考えやんだし、親戚もそうだったかもしれん、でも、そんな社会の中で生きてきた私らは、そんなことはあんまり認めやんだ。

裁判に勝ったときの気持ちはどんなだったか?

当時はねえ、裁判に勝ったと、助かったという気持ちじゃなくてねえ、やれやれ、おいらの言い分にやっと認められたなと、こんによくなるとは思わんからね、『助かった』というねえ、意識はまだなかった。でも、おいらの言い分もとおるんやなと、だからな、これ、やっぱし、大学の先生たちが、口を酸っぱくして言うな、『裁判して良かったなあ』、『やっとこの裁判のために、おいらの言い分も通ったんやなあ』と、当時はそう思いました。
でも、20年たち、30年たつと、今、30年たった今日、みなさんの前で私は、大きな顔をして、とてもこんな元気な姿で、みなさんに話すなんて、私は夢にも思っとらんだ。
だから、今、はっきり言えることは、協力してくれた人らに、 『助けてくれてありがとう』と言いたいのが私の本心です。だから、今もって、支援団体の方たちは、わたしらの命の恩人やということを、肝に銘じて忘れやん気持ちでおります。

余談になるけどねえ・・・

私らこの小学校から、うちに帰るのにねえ、鈴鹿川を渡って帰るんや。7月のねえ、産卵期になるとねえ、こんな、カニやカレーがねえ、川で踊っとる。それを学校の帰り、5年生くらいっていうたら、あんたらぐらいや。パンツ一枚になって、川ん中、そんなもん、カニを5,6っぴきとってさ。『おい、おっかあ、こんばんのおかず炊いてくれ』って言って、カニやカレーを炊いて食ったことある。
あんたら、カニやカレーって食ったことあらへんやろ。おいしいのやで、あんたら、ハンバーグや何たらばっかりくっとったら、そんなん、丈夫な子にならへんぞ。
「おいしいよ。カレー」
「ほう、でも、生きたこんなカニ、食ったことあらへんやろ?そんなカニが捕れたんやで。」
「躍り食いせなあかん?」
「そうや、躍り食いせんならんだ。そんなな、 日本の国っていうのうは、そんなええ国やったんや。このまま会社にしておくと、また地球を壊してしまう。地球を壊してしもうたら、猛毒マスクはめて勉強せんならんなんて、あんたらの子どもがそうな目にあったら、はりあいないやろう。なっ、学校から帰ってきたら、セミとったり、トンボとったり、お前ら、クワガタ買うやろう、クワガタやカブトムシ買うやろう、そんなん買わんでもいっぱいおるんやで。」
「おるよ。」
「おう、あんたとこおるやろう、でも、今、ここ探そうと思てもおらへんやないか。 それも、公害のためやで。なっ、これ、ここ、ずーっと大きな松林やったんやで。大きなこんな松が枯れたんやで、公害で。公害って、そんな恐ろしいもんやで。なっ、だから、お前ら、おじさんの話聞いてな、自分の小学校の近くで、こんな話が出たら、絶対反対せなあかんのやに。まあ、ひとりでも分かってくれりゃええけど・・・。」
「うん、分かってる。」
「まあ、そういうことやで。」
「ありがとうございました。」

雑談へ

・・・「おじいちゃんと、いっしょ・・・・」
「おじさんもう70歳やで」
「裁判の時は何歳やった。」
「裁判の時は、30くらいや、あんたらのお父さんと同じくらいやろ?ちゃうか」
「40くらい。」
「ああ、そうか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・